関ジャニ∞、ハローグッバイ。

明日、2024年2月4日に、関ジャニ∞は新しいグループ名を発表する。

 

わたしが関ジャニ∞を好きになったのがいつなのか、もう正確な年を調べないと忘れてしまうくらいの年数が経った。(多分8年くらいだと思う)

8年間、何かをずっとコンスタントに好きでいられるってすごいな。関ジャニ∞本人たちも、わたしも、山あり谷ありの時間だった。この記事を読んでくださっている方もきっと色々あったよね。でも今振り返ると、その経験が愛おしく感じる。と、信じてる。

 

世間というのはひとつの生き物だと、最近の世の中を生きて思うようになった。まるで小魚の集合体が、大きな魚に食べられないように自分たちを巨大にみせて泳ぎ回る…

本当はひとりひとりに権力なんてないのに。今は本当に、赤の他人の意見が簡単に見られるようになってしまったから。わたしのこのブログもしかり。発信すれば、誰かが必ず見る世界だ。だから、発言には気を付けたいなと思う。でも、その分、ひとりひとりの応援や声が何倍にもなって、大好きな関ジャニ∞に届くこともあるはず。だから批判は、文字やネットに残らないようにしたい。あくまでわたしの話。

 

ところで、わたしは関ジャニ∞が5人になったときに書いたブログ、『結局辛かろうが明日はくるんだよって話』でこんなことを記録していました。

今の関ジャニ∞に、私が出来ることってなんだろう?って、9月5日からずっと考えてました。正解かどうかなんてわからないけど、私は「誠実なファンでいる」ことをしたいです。今の関ジャニ∞はきっと、良くも悪くも注目されやすいと思います。だからこそ、ファンはアイドルその人達の鏡だと捉えられる。Twitterを見ていると、eighterさんは本当に素敵な方が多くて。みんなそれぞれ色んな感情を持っていることをしっかり理解している方が大勢いて、すごく励まされました。

私は関ジャニ∞に恥じない自分でいたいです。それがたくさん勇気やパワーをくれる彼らへの少しでも恩返しになると信じて。

あらためて振り返ってみると…

今日までちゃんと「誠実なファンでいられた」と自信をもって言える。そんなわたしのことが、わたしは好きだ。だから、誠実なファンをやってきた貴方もきっと大丈夫だよ。明日から、また新しい楽しいことがきっとあるよ、と伝えたい。

 

疲れたならネットニュースは見なくてもいいし、良く知らない人からの声も右から左に流していい。「まー、色々?あるみたいですね!」の一言で、つまらないと思われたほうがいい。

わたしたちの気持ちを話したり聞いたりできるのは、同じ想いのファンだけだ。どうか貴方が本当に話したい、聞きたい相手と繋がっていられますように。そしてわたしがSNSでその相手になれたら、それはとても嬉しいことだと思う。

 

名前を変えることが決まってから、毎日、関ジャニ∞へお礼を心の中で言い続けた。関ジャニ∞でいてくれてありがとう。生かしてくれてありがとう。

 

だから、ちゃんと言えるんだ。

ハローグッバイ、関ジャニ∞って。

どん詰まりの人々に見たまばゆいほどの光

一年前の、10/29(土)舞台『閃光ばなし』を観劇してきました。

当時下書きに残したまま、眠っていたのでせっかくならこのタイミングで公開したいと思います。

昭和三部作の三作品目。『俺節』、『忘れてもらえないの歌』と観劇することができていましたので、今回当たったらいいなぁと願っていましたが、こればかりは運もあるし、不正な手段を使って観劇することはしたくなかったので、応募して静かに祈っていました。今回、貴重な経験ができたこと、大事に大事にしていきたいと思います。

 

福原さんの舞台は泥臭くて、胸が熱くなる。そして、その時代を生きた人達の言葉選びが好きです。

今回は新中川によって分断された、こっち側と向こう側を描いた作品。川が作られ、そこに橋がないことで不自由を強いられている「どん詰まりの人たち」と、橋をわざとかけず、バスを使わせることでお金儲けを企む「権力者たち」…

 

まず、この舞台は、セットがとても広く感じました。

登場人物は上へ横へ時には下へも自由に動き回る。舞台上が本当に街のようで、驚きました。そしてそのセットのひとつひとつに歴史を感じたのです。

加古さん役の、小林けんいちさんがパンフレットで

ボートを浮かばせるのに、布を川に見立てて動かす稽古をしてて。そういうところも時代に逆行してて面白いなと思ってます。だって今、プロジェクトマッピングだなんだって、いくらでも映像技術を使えるじゃないですか。なのに人力で両サイドから布を引っ張る(笑)。「あぁ、人がやってこその演劇なんだ」って思わされました。

とおっしゃっていて、なるほどなぁと。人がその場で作り上げる、それが舞台を「生もの」という理由なのかなと勝手に解釈しています。

そしてこの舞台に限ったことではないですが、照明がとても素敵な働きをしています。上手に集めたいところに視線を誘導して、わたしたちは自然と光に導かれるようにそちらに目を向けるのです。

 

佐竹兄妹は確かに話の中心ではありましたが、全員が主人公に思えました。それぞれの演者さんが、熱量を込めて舞台で生きていたからこそ、誰も脇役だと思えなかった。

 

『閃光ばなし』で一番好きなセリフ。是政くんのお父さんが言った

「誰よりも全速力で向かって、誰よりも遅く到着しろ」

どんな人生を歩んできたら、こんなセリフが思いつくんでしょう。でも、このくらいの心の在り方がいいですね。このくらいのマインドの方が、世の中を歩いていけそうな気がします。

 

是政くんの元婚約者、由乃さんはとても素直な人でした。人を憎く思えるまで誰かを好きになる、というのは怖くもあるけれど、羨ましいとも思ってしまった。そこまでの恋、できる人間なんて一握りなんじゃないでしょうか。だからこそ、狂気的に思える行動も、わたしには素直に生きているんだと感じました。

 

↑ここまでが、当時書き残していたメモ。読みながら、あぁそうだったなぁと色々思い返せて楽しい時間を過ごせました。

まさか1年後にこんな風になるとは本当に全く予想できなかったけれど、関ジャニ∞の安田くんがまた、舞台に立ってくれることを願って。今回はこの辺で終わりたいと思います。

 

おばあちゃんが死んだ。

おばあちゃんが死んだ。

別に一緒に暮らしていた訳じゃなかった。でも自宅から自転車で20分もかからないところに住んでいた。

おばあちゃんの家に行く時は、大きな橋を渡る必要があって、必死に自転車を漕いで土手を眺めた。

 

毎年、年明け、12日には必ず家族で遊びに行った。おばあちゃんの家に行くと、スーパーで買ってくれた手巻き寿司が並ぶのが恒例だった。

大人たちが話している横で、内容をわかっているフリしながら食べるその手巻き寿司が好きだった。わたしが美味しいねと食べると、嬉しそうに色々なものを出すおばあちゃんが好きだった。おばあちゃんってどうしてこんなに、人をもてなすのが好きなんだろう。

でも全部過去形になってしまった。

 

コロナが流行り始めてからは一度も会えなくて、おばあちゃんは電話越しで、危ないから家にいなさい、ウチには来なくていいよと何度も言っていた。寂しく思いながらも、それがおばあちゃんの望みならそうすべきだと感じていた。

 

わたしの記憶にあるおばあちゃんの手は、シワシワでいつもプルプルと震えていた。でも、笑顔で穏やかな顔しか知らない。

わたしの父は、おばあちゃんの若かりし頃も知っている。父が家を出て何十年も経つけれど、父にとってのお母さんはおばあちゃんだ。でも父はわたしの前で泣いていない。

わたしはこんなにメソメソしている。それが申し訳なくて、情けない。でも涙は止められない。

 

おばあちゃんの人生がいいものだったかどうか、決めるのはわたしじゃない。おばあちゃん自身だ。そんなことわかってる。

泣きながらこれを書いているのは、忘れたくないからだ。大事な思い出を。できるだけ長く覚えていられるように。

 

葬式は、火葬場が混んでいるらしく、おばあちゃんが死んでから9日も経ってからだった。会場で安置してもらえていたおかげでおばあちゃんは口も閉じられて、傷ひとつないように見えた。

顔を見たら泣いてしまうかもと思ったけど、涙はこぼれなかった。

血が抜かれたらしく、普段見知っているおばあちゃんとは顔の印象が違うように思えたけれど、確かにおばあちゃんだった。肉体は息をしていないのはわかるけど、動き出しても不思議じゃないような気がした。

 

頭の中では横山さんの413manが鳴っていて、笑って見送りたかった。心配いらないよって心で声をかけた。

 

随分昔に死んだおじいちゃんが「やっと来たか、待ちくたびれたよ」っておばあちゃんを手招きする姿が、読経中、確かに見えた。

 

24年生きてきて、初めてわかった。人は死んだら、先に死んだ大事な人のところにいくだけだ。

だから大丈夫だって。今わたしが死んだらきっと、数年前に死んだ犬がわたしを歓迎してくれる。それだけのことだ。故人にとって、きっと死は悲しいものじゃない。そう思ったら、笑ってお別れできた。

 

こうやって家族葬でも構わないから、重たいんじゃないかってくらい、花を飾って、送ることができて幸せだなと思った。

骨になった祖母は随分と小さくなったけど、肉体はなくなったけど、確かにわたしたちのそばにいる。そう思いたい。

 

初めて犬以外に近しい人が亡くなったので、この感情を忘れたくなくて随分と重たいことを書いてしまった。書き留めたこの文章が、どうにか祖母に届いたらいいなと思った。

 

結局最後まで、父はわたしたちの前では泣かなかった。

寂しくないよ、大丈夫。

2022年12月31日。

マリウス葉くんが、芸能界を去る。

明日から芸能界としてのSexyZoneは、4人になる。

 

わたしがSexyZoneを追いかけ始めたのは、2018年。ちょうど、関ジャニ∞からすばるくんが抜けて、呆然、戸惑いが隠しきれなくて。ほんの少しだけ、何を信じればいいのかわからなくなっていたわたしを救ってくれたのが、松島聡くんだった。

好きなものはいくつあってもいいんだ、と思ってSexyZoneを好きになった。

普段はしっかりとした大人なのに、4人の前だと一番ふざけて子供みたいな顔をする健人くん。知る前まで、カッコつけすぎだと思っていたけど実は恥ずかしがり屋なだけの可愛いところもある風磨くん。年上と年下に挟まれて、どこまでも真面目に、でも遊び心を忘れない勝利くん。ひたむきにお仕事に取り組んで勇気をくれる聡くん。周りに流されず、いつだって自分を確立しているマリウスくん。

5人がグループで出す雰囲気が大好きだった。

 

でも、ファンになって数ヶ月で聡くんが活動休止。たった数ヶ月応援していただけの身だけれど、聡くんと、今を必死に走る4人のセクゾがどうにか報われればいいと、そればかり願っていた。彼がSexyZoneに復帰するかどうかは、本人とメンバーにしかわからないと本気で思っていたし、期待も憶測も絶対にしたくなかった。

 

2020年、聡くんが復帰。5人でのRUNは本当に奇跡で、今だって何度見たって涙が止まらないくらい素晴らしいパフォーマンスだった。周りの誰もがSexyZoneを応援している、そんな気さえしていた。

ただ、わたしには少しの違和感があった。どうにも聡マリの雰囲気がいつもと少し違う気がすると。マリちゃんが若干、一線を引こうとしているような感じが見てとれた。気のせいかもしれないけど。

そして、マリちゃんの活動休止。聡ちゃんの時とまったく同じ気持ちで彼の決断を待っていた。グループとしての結果は聡ちゃんの時とは異なることになった。

心から込み上げてきたのは、やっとマリちゃんを解放してあげられたんだ、という気持ちだった。ファンも、不安定な状態から抜け出せたと、思ってしまった。嫌なやつだよね。友人に心配されても、何て答えていいかわからなかった。

でもきっと、この決断は彼らが信じて決めた未来なんだと思いたい。

だったらわたしにできることは、ただそれを受け入れるだけなんだ。

 

寂しくないなんて嘘だ。マリちゃんの歌声が大好きだから。マリちゃんの長い手足をしなやかに動かして踊る姿が好きだから。Sexy Zoneの永遠の末っ子として、甘やかされて愛されているところが好きだから。

 

永遠なんてないって、すばるくん、亮ちゃんの時に嫌というほどわかっていたはずなのにな。やっぱり全然子供みたいだ。駄々をこねて、嫌だと言いたい。

 

ファンクラブに入って、届いた会報18冊のうち5人が揃った会報はわずか5冊。それでもわたしは5人のSexy Zoneを応援していたって言っても良いかな。

4人のSexy Zoneも大好きだけれど、わたしはきっと次のファンクラブの更新はしない。もしかしたら、数年後に心機一転入るかもしれないから、そのときはこのブログを読んだ人はこの記事を忘れて笑って受け入れてほしい。……超わがままでウケる。

 

これを書くことが正解ではないと思う。わたしのこの文章を読んで、誰かが傷つくかもしれない。わざわざ文にするなと思われるかもしれない。でもわたしは自分の感情をどこにも出さずに今年を終えるのは無理だと判断した。膨大な量の情報が溢れるこの世界に、ちょっとだけ、自分の正直な気持ちを流すくらい、今日だけは許して欲しい。

矛盾だらけの文章。普段なら書き殴ったりしない。でも今日はいいんだ。

 

これは、明日から、4人のSexy Zoneを見ても泣かないために必要な儀式だ。

 

 

 

10/8(土)パラダイス観劇しました

皆様、お久しぶりです。

と書き出しましたが、思ったより前回から日が経っていなかったですね。

10月になって、一気に夏が終わり風が秋らしくなりました。半袖がタンスにしまわれ、ニットを着ようか迷うそんな神無月の8日、丸山さんの舞台『パラダイス』を観劇してきました。

 

丸山さんの役は詐欺グループのリーダー。そんな前情報に、友人と「これはわたし達が思い描く、まるちゃんにピッタリの役なのでは!?」と興奮しながら(オタクって気持ち悪いですね)そわそわと席に着きました。

結論、役は確かにぴったりだったけど内容はヘビーだった。

 

丸山さんの演じた梶くんは、最後までよくわからない人でした。目上には自分を押し殺してヘラヘラして目下には強気に出る。人間らしいといえば聞こえはいいけれど、正直、関わりたくないタイプ。感情を剥き出しにして怒鳴る姿は迫力がありました。

だけど本当はすごく弱い人。体を膨らませて大きく見せているだけで、針で突いたらすぐに破裂してしまう、そんな危うさを持っている気がしました。

 

こういう人って、世の中にたくさんいるなと思います。

人より、少しだけ情報を多く受け取ってしまったり、少しだけ思い込みが強い、ただそれだけなのに、人に向ければたちまち凶器になる可能性を秘めています。それに今は、針の数が多いから、自分で気をつけて避けなければいけない。避けたつもりでも流れ弾に当たるなんてことしばしば。的確に今を生きる人間を描いていて、そんなことを考えました。

 

八嶋さん演じた辺見さんは、怖い人でした。八嶋さんは、パンフレットで辺見さんのことを

僕が演じる辺見は、基本的に諦めている男という印象です。

と評していて、その通りだなと思いつつ、その諦めに執着が混ざっているのが恐ろしかったです。

辺見さんが梶くんに「お前だってこうなることを覚悟して俺に着いてきたんだろ?」(意訳)と言い放ったシーンは、なんとも言い難い気持ちになりました。確かに梶くんは甘かったんだろうな、と思いつつ。でも、夢や生きる目標が変わるなんてある事じゃないですか。辺見さんはそれを受け入れられないんだろうなぁ。

 

辺見さんや梶くんがどんな理由でこの世界に足を踏み入れたのかはわからないけれど、二人の地位?って言っていいのかな、に辿り着くには、まあ生半可な気持ちではなかったはずで。梶くんがそれを手放して奮闘する理由が、おそらくなんらかの確執があったと推察される家族のためという、一連の人生を想像すると居た堪れません。それとも、手放したかったけれどずるずると引きずっていたのか、どうなんでしょうか。

 

家族の確執については、久しぶりに実家に帰ってきたであろう梶くんに対しての、お姉さんやお母さんのまるでいないように扱う態度や、話しかけたら「ああ、いたの?」といった様子から想像するしかありませんでした。家族も梶くんをぞんざいに扱っていたわけ…でもなさそうとわたしは思っていて。ただちょっとしたすれ違いで互いに素直になれなかった結果なのかなぁ。

 

わたしは毎熊さんの演技が個人的にはとても好きでした。真鍋さんは、梶くんと辺見さんの間で板挟み状態。終盤まで、彼が一体どういう行動にでるのかわからない怖さがありました。彼の最期を思うと胸がしめつけられます。

 

真鍋さんはパンフレットのインタビューで

梶との過去はほとんど描かれていないのですが、二人が夢みた曖昧な理想郷があったはず。

とおっしゃっていたので、その辺りをわたしたち、観劇した人間が想像して隙間を埋める楽しさがありました。

 

どの時代だってみんな必死に生きているわけだけど、とりわけ現代を歩くわたしたちが受け取りたいメッセージが詰まっていた。

 

遅筆でやっと感想がまとまったところで、今回は終わりにしようと思います。

ここまで読んでいただいて、ありがとうございます。またどこかでお会いしましょう。

「喝采」それは人を照らす曲

2022/7/6、関ジャニ∞47枚目シングル、「喝采」が発売された。

 

どうして関ジャニ∞の曲はこんなにも心が熱くなって、涙がとまらなくなって、優しい気持ちにさせてくれるのか。好きになって何年も経つのに、新曲をフルバージョンで聴き終わった時の感動はいつだって変わらない。

わたしの好きな人たちは変わっているようで、根本はずっと変わらない。

 

この曲を聴くと、ぐわっと内側からエネルギーが溢れてくるのがわかる。どこか切なくて、ただ楽しい思いだけをしてきたわけじゃない。悲しさや、悔しさや、情けなさ、もどかしさ。でも同時に前へ進みたい気持ちや、希望、その先の笑顔も想像している。

人生山あり谷ありなんて言うけど、本当にその通りだなぁと思う。

全部ひっくるめての「なりたい自分に注げよ 愛を なれない自分も抱きしめたいよ」なんじゃないかな。

自分だけが辛いとか、不幸だとか。いつからそんな風に考えるようになってしまったんだ。人間の最終目標は、死ぬときに良い人生だったって言えるようになること。その過程で思ったようにいかなくても、それはいいんだきっと。今目の前にある大事なものを大事にしたい。

 

「なれない自分も抱きしめたいよ」これがすごく難しい。きっと真面目な人ほど、がんばりすぎてしまう人ほど躊躇ってしまう。多分、いい加減な人は簡単にできるんだと思う。でも、どんな人も自分を抱きしめてあげるべきなんだよ本当は。どんなあなただって素敵なんだよって、声をあげて、代表してこの曲が教えてくれている。情けなくて、悔しくて大嫌いな自分も抱きしめてあげたいんだよ。

 

「フレディみたいにずっと叫んでいたいの」

ここのワンフレーズはわたしが何万回も言っている、応答セヨの「それだって空に近づいたと 言い張っていいでしょ?」に近いものを感じる。「叫んでいたいよ」とか「叫んでいたいんだ」でも意味は通じる。だけど、あえて「叫んでいたいの」と言うことが一番この曲の歌詞に相応しい。気がする。(何様だよって感じだろうけど)

 

「一心不乱な愛であれ」

脇目も振らず、ただ好きだって言っていいんだ。遠慮なんていらない。

なんて力強くて優しい歌詞なんだ。

 

ここまで歌詞の素敵さを書いたけど、曲調ももちろん好き。

世界は自分が目をつぶらない限り、ずっと広がっていくんだって思わせてくれるような音の幅。大きなステージで演奏する彼らを想像すると、今までやってきてよかった、自分を含め、腐らずにここまでやってきたすべての人達に喝采を送りたくなる。

きっとこれはただの妄想じゃなくて現実になるんだろうな。

 

書き殴ってしまった文章。普段と全然書き方が違うけど、これはこれでいいかな。

 

自分の好きな人や大事な人、好きなことには生きてる間にちゃんと好きだって伝えたい。それはきっと恥ずかしいことじゃない。それがたとえ自己満足でもいいや。怖がることなんてないんだよ。

だってまだ、「何も始まっちゃいない」んだから。

『彼女が好きなものは』想いを馳せて

もう2ヶ月ほど前になりますが映画、観てきました。鑑賞後、ほんとに色んなことが頭を駆け巡っていて、下書きだけ存在していたけどうまくまとめられず。

そのままになっており、今日見て、やっぱりいい映画だなぁとあらためて思ったので投稿しようと思いました。


『彼女が好きなものは』

なぜわたしがこの映画を観ようと思ったのか。

わたしの好きな林遣都さんが、著名人のコメントを載せていて惹かれたからです。


なんて優しく美しいラストなんだろうと胸が締め付けられました。

この映画に携わった全ての方々に拍手を送りたいです。

素晴らしい映画でした。人が人を傷つけることが容易い世の中で、思いやりに欠けた言動行動の先に何が起こり得るのか、想像力を持って生きなければとつくづく思います。

三浦さんが純に放った「想像したい」という言葉は世界を照らしてくれる気がします。

もう一度言わせてください。本当に素晴らしい映画でした。

林遣都


簡単に概要を書いてしまうと、男性同士の恋愛が好きな女の子が、男性のことが好きな男の子に恋をするお話です。本当はこんなひとフレーズじゃ伝えきれないけれど。


何もかもが異なる2人がわかり合おうと、努力していく。その姿がとても印象に残りました。


純は、家族が欲しいと言います。結婚して、子供を授かって、幸せな家庭を築いて。そんな普通ができない自分が嫌いだと、そう言います。


普通ってなんなのでしょう。

そんな曖昧な定義で、縛られて。

今、少しずつ、世の中は変わってきていると思います。それでも、まだまだ自分と違うものを受け入れるのは難しい。


個人的に、人間の頭と身体と、心は繋がっているようで別々なのではないかと思うときがあります。頭ではわかっていても、心がそれを受け入れられない。心が忘れてしまっても、身体が覚えている。みなさんには、そんな経験がありますか?


同性愛とか異性愛とか、本当はそんな言葉があることがおかしいと思います。

人を好きになる気持ちに性別は関係ないと、それが当たり前の世の中であればいいのに、と願います。


だけど、わたしは当事者ではありません。やっぱりどこか、他人事なのかもしれません。彼ら、彼女らには計り知れない気持ちがあるので、簡単に理解したような口を利きたくありません。


だから本当は、こんな文章を書くのも躊躇われました。それでも、投稿しようと思ったのは、ラストのシーンがあまりにも美しく切なかったからです。


とある事件で、純は学校を去ることになります。その前に三浦さんと最後のお出かけをします。バス停でバスを待つ間、純は自分に寄りかかる三浦さんに、初恋は自分か?と聞きます。三浦さんは笑いながら違う、と答えます。穏やかに最後の時間は過ぎていきます。

時は経ち、学校に飾られた、三浦さんの描いた美しい絵のタイトルが『初恋』とわかり、物語が終了します。


そこにたどり着くまでの色々なことが一瞬ですべて、頭に並べられて、涙を止めることができませんでした。

そこにあったのは、確かに大好きな人を描いた、女の子でした。


それと、純の親友の亮平くんも素晴らしかった。ただまっすぐに純を大切に想う気持ちが痛いほど伝わってきて、純もきっと救われたんじゃないかと思います。

2人が歩いてきた思い出は、ほんの少しの価値観の違いでは揺るがないよと、希望を持たせてもらいました。


うーん、本当にいい映画だったな。

なかなか人に勧めづらいテーマではあるけど、わたしの記憶には確かに残る素晴らしい映画でした。

この映画に携わったすべての方々に感謝をいたします。素敵な作品をありがとうございました。