「喝采」それは人を照らす曲

2022/7/6、関ジャニ∞47枚目シングル、「喝采」が発売された。

 

どうして関ジャニ∞の曲はこんなにも心が熱くなって、涙がとまらなくなって、優しい気持ちにさせてくれるのか。好きになって何年も経つのに、新曲をフルバージョンで聴き終わった時の感動はいつだって変わらない。

わたしの好きな人たちは変わっているようで、根本はずっと変わらない。

 

この曲を聴くと、ぐわっと内側からエネルギーが溢れてくるのがわかる。どこか切なくて、ただ楽しい思いだけをしてきたわけじゃない。悲しさや、悔しさや、情けなさ、もどかしさ。でも同時に前へ進みたい気持ちや、希望、その先の笑顔も想像している。

人生山あり谷ありなんて言うけど、本当にその通りだなぁと思う。

全部ひっくるめての「なりたい自分に注げよ 愛を なれない自分も抱きしめたいよ」なんじゃないかな。

自分だけが辛いとか、不幸だとか。いつからそんな風に考えるようになってしまったんだ。人間の最終目標は、死ぬときに良い人生だったって言えるようになること。その過程で思ったようにいかなくても、それはいいんだきっと。今目の前にある大事なものを大事にしたい。

 

「なれない自分も抱きしめたいよ」これがすごく難しい。きっと真面目な人ほど、がんばりすぎてしまう人ほど躊躇ってしまう。多分、いい加減な人は簡単にできるんだと思う。でも、どんな人も自分を抱きしめてあげるべきなんだよ本当は。どんなあなただって素敵なんだよって、声をあげて、代表してこの曲が教えてくれている。情けなくて、悔しくて大嫌いな自分も抱きしめてあげたいんだよ。

 

「フレディみたいにずっと叫んでいたいの」

ここのワンフレーズはわたしが何万回も言っている、応答セヨの「それだって空に近づいたと 言い張っていいでしょ?」に近いものを感じる。「叫んでいたいよ」とか「叫んでいたいんだ」でも意味は通じる。だけど、あえて「叫んでいたいの」と言うことが一番この曲の歌詞に相応しい。気がする。(何様だよって感じだろうけど)

 

「一心不乱な愛であれ」

脇目も振らず、ただ好きだって言っていいんだ。遠慮なんていらない。

なんて力強くて優しい歌詞なんだ。

 

ここまで歌詞の素敵さを書いたけど、曲調ももちろん好き。

世界は自分が目をつぶらない限り、ずっと広がっていくんだって思わせてくれるような音の幅。大きなステージで演奏する彼らを想像すると、今までやってきてよかった、自分を含め、腐らずにここまでやってきたすべての人達に喝采を送りたくなる。

きっとこれはただの妄想じゃなくて現実になるんだろうな。

 

書き殴ってしまった文章。普段と全然書き方が違うけど、これはこれでいいかな。

 

自分の好きな人や大事な人、好きなことには生きてる間にちゃんと好きだって伝えたい。それはきっと恥ずかしいことじゃない。それがたとえ自己満足でもいいや。怖がることなんてないんだよ。

だってまだ、「何も始まっちゃいない」んだから。